■大垣日大で「祖父孫鷹」髙橋慎は明大へ進学…祖父には「結構怒られました」
東邦(愛知)や大垣日大(岐阜)で甲子園通算40勝を挙げた阪口慶三さんが、4月から市立関商工(岐阜)の特別顧問に就任した。5月4日に80歳となってもなお衰えぬ情熱。部活動指導員として週数回、技術指導やサポートを行っている。
阪口さんは、1967年に母校の東邦で監督に就任。1977年夏の甲子園で、1年生右腕の“バンビ”こと坂本佳一を擁し準優勝。平成最初の甲子園となった1989年センバツでは2年連続で決勝に進出し、上宮(大阪)に延長10回サヨナラ勝ちで、自身初の全国制覇を飾った。
2004年に同校を離れ、翌05年4月から大垣日大の監督に就任。「鬼の阪口」から「仏の阪口」へと指導路線変更を推し進め、2007年センバツで準優勝、2009年神宮大会で優勝し、昨夏甲子園を最後に健康上の理由で監督を退任した。
退任の理由に「孫と3年間、本当に充実した毎日だった。その孫が卒業すると、それが僕の気持ちを引退、勇退という考えになったのは間違いない」と偽らざる本心を明かしていた。
その孫とは、髙橋慎。今春から東京六大学リーグの明大へ入学し、捕手として早期ベンチ入り、そしてスタメン獲得へ向け、汗を流している。
「祖父孫鷹」で挑んだ昨夏の甲子園は、髙橋にとって生涯忘れることのない記憶として残り続けている。2回戦のおかやま山陽戦。8回に右越えへ同点ソロを放つも、タイブレークの延長10回2死満塁、自らの捕逸で追いつかれると、本塁への送球が大きくそれる間に2人目の生還を許し、まさかの逆転サヨナラ負けを喫した。
「本塁打を打ったけど、その後に自分のエラーで負けてしまったので、とても強い印象が残っています」
幼い頃から、大垣日大のグラウンドが“遊び場”だった。祖父に柔らかいボールを投げてもらい、バッティングをするなど、よく遊んでもらっていた。
「一度、小1か小2の時に、喉元付近にボールを当ててしまったことがあります…」
大垣日大に入学することは、もはや必然だったのかもしれない。15歳の春。野球部の門を叩くと、普段とは違う祖父がいた。
「結構怒られました。自分のプレーが情けなかったので、そこは叱ったりしてもらって、それが今につながっていると思います」
「一生懸命にやれ」。今でも大切にしている祖父からの言葉だ。昨夏。4番捕手として一生懸命に白球を追い、甲子園通算40勝をプレゼントした。引退後、「監督」から「おじいちゃん」に呼び名は戻っても、尊敬する心に変わりはない。
自身の大学進学と時を同じくして、祖父は新たな一歩を踏み出した。孫として、そのチャレンジはどう思っているのだろうか。
「最初は何してんのかなと思ったんですけど(笑)。やっぱり野球をして、目標がある方がそれに向かって頑張れると思うので、生涯野球で頑張ってほしいなと思っています」
これまで支えてくれた「おじいちゃん」のためにも…。髙橋は神宮の舞台で活躍し、必ず恩返しする。