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沖縄から多くの名選手が甲子園に出場した

 昨秋九州大会。沖縄県が米国の施政権下から復帰を果たしてから50年を迎えた節目の年に、沖縄尚学が2013年以来、9年ぶりに秋の九州王者となり、今春センバツ出場を確実にした。今や高校野球の強豪に数えられる沖縄県だが、戦後の米国統治下では様々な制約を受けてきた。

 県勢の甲子園初出場は58年夏。40回大会を記念して1都道府県1代表制が採用され、沖縄からは首里高校が出場した。しかし沖縄は米国の領地だったため、パスポートを持参して関西入り。そして初戦敗退後に持ち帰った聖地の土は、那覇港での検疫を通すことができず、無情にも海に捨てられた過去がある。

 こうした不遇の時代を経て、10年後の1968年夏、興南高校が初めてベスト4入り。そして名将・裁弘義監督が率いた豊見城高校が春夏計4度のベスト8、転任した沖縄水産高校では1990年、1991年夏の甲子園で2年連続準優勝に輝いた。

 そして1999年センバツ。沖縄尚学高校が悲願の甲子園制覇を果たすと、2008年センバツでは2度目の全国制覇。そして2010年、興南高校が史上6校目の春夏連覇を成し遂げることになる。

 石嶺和彦(豊見城)、仲田幸司、宮城大弥(ともに興南)、大野倫、新垣渚(ともに沖縄水産)、東浜巨(沖縄尚学)…。沖縄から聖地を沸かせた名選手たちがプロへと巣立っていったが、アマチュア球界に残った個性的な選手も数多い。今回はそんな選手たちをピックアップしたい。

神谷善治(沖縄水産)

 1990年に沖縄水産を県勢初の甲子園決勝へと導いたエース。右スリークオーター気味のフォームからシュートとスライダーを操り、強打者たちをねじ伏せた。決勝の天理(奈良)戦では、のちに日本ハムへと進んだ南竜次と息詰まる投手戦を演じた。0ー1で敗れ準優勝に終わったが、6試合中5試合で完投。神谷の思いは、当時外野手としてその背中を見続けてきた大野倫に引き継がれることになる。卒業後は沖縄電力で活躍した。

比嘉公也(沖縄尚学)

 1999年センバツで沖縄に初めて優勝旗をもたらした左腕。初戦で比叡山高校(滋賀)の村西哲幸との投げ合いを3安打完封で制すと、PL学園(大阪)との準決勝では田中一徳、覚前昌也ら好打者が揃う西の横綱相手に延長12回8―6で競り勝ち、初優勝に貢献した。進学した愛知学院大学を卒業後の2006年に母校の監督に就任。2008年センバツでは好投手の東浜巨を擁して26歳の若さで甲子園優勝監督となり「ゲームセットの瞬間まで勝ちを意識せずに、選手たちには気を緩めるなということは言い続けてきたんですけど、今終わってみて本当にホッとしています。(選手、監督としての優勝に)恵まれているなと思います」と話した姿が印象的だった。

我如古盛次(興南)

 2010年に史上6校目となる春夏連覇を果たした時の主将。センバツ通算最多タイ記録の13安打を放つと、夏の決勝・東海大相模(神奈川)戦では一二三慎太から左翼へ3ランを放つなど、2大会で51打数25安打、打率.490と打ちまくった。エースの島袋洋奨と臨んだ優勝インタビューで「今日の優勝は沖縄県民で勝ち取った優勝だと思っているので、本当にありがとうございました」と感謝の意を伝えると、聖地は割れんばかりの拍手と祝福の指笛に包まれた。立教大学でも4年時に主将を務め、興南高校の1学年後輩の大城滉二(現オリックス)と再び三遊間コンビを形成。格式を重んじる東京六大学の応援としては珍しく、打席時には「ハイサイおじさん」が流れた。卒業後は東京ガスに進んだ。

山城大智(沖縄尚学)

 2013年夏、2014年春、2014年夏と3季連続で聖地のマウンドに上り、通算5勝をマークした右腕。13年秋の神宮大会では優勝投手に輝いた。左足を高々と上げる独特のフォームから「琉球のライアン」と呼ばれ、140キロ台中盤の直球にカーブ、スライダー、ツーシームを操り、14年のU18アジア選手権では準優勝も経験。豊富な実績と経験を携えて進学した亜細亜大学で通算23試合に登板して3勝を挙げた。卒業後はトヨタ自動車に入社し、現役として奮闘している。

 また、近年では沖縄球児の素質を見込まれ、各地方へ越境入学するケースも少なくない。巨人で活躍する大城卓三は3兄弟で東海大相模へ進学。浦和学院(埼玉)のエースとして昨春センバツ開幕戦で完封勝利を挙げ、今春から早稲田大学への進学が決まっている宮城誇南は読谷村の出身だ。

 他にも昨年の星稜高校(石川)エース・マーガード真偉輝、美東中時代に最速148キロを計測した「琉球の怪物」こと津嘉山憲志郎は、兵庫の強豪・神戸国際大付へ入学。昨夏1年生ながらエース格として登板を果たした。今後も「うちなーんちゅ」たちの活躍から目が離せない。

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