1992年夏。エース右腕の森尾和貴擁する西日本短大付が全国制覇を成し遂げてから30年以上の年月が経過した。全5試合すべてに完投し、わずか1失点は圧巻の一言。その時以来、福岡県の高校は甲子園で頂点には立っていない。
松永浩美(小倉工)、新庄剛志(西日本短大付)、村田修一、田中賢介(東福岡)、そして近年では今永昇太(北筑)や梅野隆太郎(福岡工大城東)…。数多くの名選手を輩出してきた福岡県の高校野球の歴史を振り返ってみたい。
戦前は、小倉工が隆盛を誇った。1931年夏(昭和6年)にベスト4入りするなど、戦前までに春7度、夏5度の全国出場を果たす。次いで福岡工も春4度、夏4度出場するなど、工業高校の強さが際立っていた。
戦後にその名を全国にとどろかせたのは小倉高校だ。1919年(大正8年)、小倉中学の名前で夏の選手権に初出場。1947年(昭和22年)センバツで準優勝すると、同年夏の選手権で初優勝。翌48年(昭和23年)夏の選手権では福嶋一雄が5試合連続完封、45イニング連続無失点の金字塔を打ち立て、夏2連覇の偉業を果たした。
三池工のインパクトもすさまじかった。巨人・原辰徳監督の父である貢さんが指揮を執り、1965年夏(昭和40年)、甲子園初出場で初優勝を飾った。このニュースは三池炭鉱の廃鉱で沈む町を明るく照らし、ナインは小倉駅から大牟田まで約150キロに道のりをパレードしたのはもはや語り草だ。三池工は2022年まで甲子園出場はこの一度きり。夏の選手権に限れば、1949年の湘南(神奈川)に次ぎ、全国で2校しかない勝率10割校として栄光を今に伝えている。
福岡第一はあと一歩で深紅の大優勝旗を逃した。1988年(昭和63年)、エースの前田幸長、「九州のバース」こと主砲の山之内健一を擁し、前述の三池工業以来となる決勝進出。広島商に0-1と僅差で敗れ準優勝に終わったが、聖地を沸かせた2人の活躍は高校野球ファンの心に深く刻み込まれた。
近年では2011年春(平成23年)の九州国際大付が最も大旗に近づいた。東北(宮城)でダルビッシュ有を指導した若生正広監督の下、三好匠-高城俊人の強力バッテリーで決勝まで勝ち上がった。惜しくも東海大相模(神奈川)に1-6で敗れたが、2014年夏(平成26年)~2016年夏(平成28年)には3年連続で福岡を制するなど、一躍全国の強豪校へとのし上がった。
また、県立高の東筑が2017年夏(平成29年)、2018年春(平成30年)に2季連続で出場するなど、私学だけに戦力が偏らないのも福岡の魅力の一つ。ただ、出場校が絞れないために、有力な中学球児が県外の強豪校へと進学するケースが少なくない。かつて甲子園で一時代を築いた「九州の雄」の復活が待たれる。