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今江敏晃
PL出身の楽天・今江敏晃コーチ

 大阪桐蔭や履正社の2大勢力が席巻する大阪の高校野球史を語る上でPL学園の存在は外せないだろう。甲子園に春20回、夏17回出場し、計7度の全国制覇。通算96勝は中京大中京(133勝)、龍谷大平安(103勝)に次いで3位を誇る。輝かしい伝統に彩られたチームはどのようにして栄華を極め、そして休部への道を辿ったのだろうか。

 甲子園で初優勝したのは1978年夏(昭和53年)。エース左腕の西田真二、主将の木戸克彦らに率いられたチームは準決勝の中京(愛知、現中京大中京)戦で9回表まで0―4と劣勢を強いられる。しかし土壇場で4点差を追いつき、延長12回、押し出し四球でサヨナラ勝利。決勝でも0-2の9回裏に逆転サヨナラを果たし、初めて深紅の大優勝旗を手にした。「逆転のPL」の異名はここから始まった。

 PLの歴史を語る上で「KKコンビ」を外すことはできないだろう。1983年夏(昭和58年)準決勝。夏春夏の3季連続優勝を狙う池田(徳島)に1年生の桑田真澄と清原和博が相対した。まずは桑田が魅せた。2回、エース水野雄仁のインハイ直球をレフトスタンドへ豪快に叩き込むと、投げては「やまびこ打線」の異名を誇る強力打線をわずか5安打に抑え7-0の完封勝利。全国の高校野球ファンの度肝を抜いた。

 4番の清原も負けていない。池田戦では水野の前に4三振に抑えられたが、決勝の横浜商(神奈川)戦で2回、右翼ラッキーゾーンに先制ソロを放つなど、3-0で5年ぶり2度目の全国制覇に貢献。1年生コンビは鮮烈なデビューを飾った。

 そして最上級生として迎えた1985年夏(昭和60年)。清原が決勝の宇部商(山口)で2打席連続本塁打を放つなど圧巻の活躍。「甲子園は清原のためにあるのか!」の名実況が生まれた瞬間だった。最後は同点の9回にサヨナラ勝ちで2年ぶり3度目の優勝。桑田、清原は通算5回の甲子園でそれぞれ20勝、13本塁打と近未来で破られることのない不滅の金字塔を打ち立てた。

 その活躍を見てきたのが当時1年生だった立浪和義や野村弘樹、片岡篤史だった。1987年(昭和62年)、当時先発完投が当たり前だった時代にエース野村、橋本清、岩崎充宏と3人の好投手を使い分け、史上4校目の春夏連覇。偉大な先輩ですらなし得なかった快挙をやってのけた。

 しかし、ここから先、PLが大旗を手にすることはなかった。1998年センバツ(平成10年)限りでチームを率いてきた中村順二監督が勇退。同年夏の準々決勝でも春に続き、再び松坂大輔率いる横浜(神奈川)と対戦し、延長17回の末に敗れた。

 2001年(平成13年)にはエース朝井秀樹、主砲の今江敏晃らスター軍団をそろえ、全国でも優勝候補に挙げられていたが、夏の大会前に部内での暴力事件が発覚し出場辞退。6カ月間の対外試合禁止処分を受けた。

 2006年春(平成18年)には前田健太を擁し、ベスト4まで進んだが、ここから大阪桐蔭や履正社の台頭が始まり、大阪府大会を勝ち上がることが困難に。また、甲子園に出場しても初戦や2回戦で敗退するケースが増え、かつての強さは鳴りを潜めた。

 そして2013年(平成25年)、またも部内暴力事件が発覚し、6カ月の対外試合禁止処分を受けると、学校側も2015年度(平成27年)から新入部員の受け入れを行わないことを発表。2016年夏の大阪府大会2回戦、東大阪大柏原戦には数多くのOBが集結し、試合の行方を見守ったが、6-7で敗れ、休部となった。

 昨年は福留孝介が中日で現役を引退し、プロで活躍するOBは前田健太(ツインズ)と中川圭太(オリックス)の2人を残すのみとなった。昭和の野球少年なら誰もが真似した、首からぶら下げたお守りを握りしめる所作はもう見られないのだろうか。かつての輝きを知っているものとしては、残念でならない。

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