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神宮球場
清原正吾と島岡吉郎さんとの共通点とは…

 東京六大学野球春季リーグ戦が8日、神宮球場で開幕した。第1週を終え、明大が東大に苦戦しながらも連勝。法大は慶大に2勝1敗でともに勝ち点1を挙げた。

 慶大はNPBで通算525本塁打を放った清原和博氏(55)の長男・正吾(3年)が3試合連続でスタメン出場。10日の第3戦、2回2死一塁の場面で今秋ドラフト1位候補の左腕・尾崎完太(4年)のチェンジアップをレフト前に運んだ。昨秋から通算6打席目でのリーグ戦初安打に、観戦した父の顔もほころんだ。

慶応高で今春センバツに出場した次男の勝児も初戦の仙台育英(宮城)戦で甲子園初安打を放ったばかり。弟に続き、アマ球界の聖地に名を刻んだ。

 父の影響もあり、慶応幼稚舎時代に野球を始めたが、慶応中ではバレー部、そして慶応高ではアメフト部。野球から6年間離れたが、大学から再び野球に挑戦した。競技として初めて握る硬式ボールと木製バット。全国から猛者が集う慶大の中で、普通なら練習についていくのがやっとだ。しかし、186センチと父譲りの恵まれた体格で努力を重ね、競技再開からわずか2年あまりで最高峰の東京六大学リーグでスタメンの座を勝ち取り、安打まで放ったことは特筆に値するだろう。

 野球経験がなく、東京六大学に名を残した人物と言えば明大元監督の「御大」こと島岡吉郎さん(享年77)が思い浮かぶ。明大時代は応援部に所属し、卒業後は吉岡証券にて6年間勤務。第2次世界大戦では海軍特務機関員としてマカオに駐在したのち、紆余曲折を経て1946年に明治高校の野球部監督に就任し、3度の甲子園出場を果たした。

 そして1952年、明大の監督に就任すると、1953年秋の東京六大学秋季リーグで11年ぶりの優勝。明大に戦後初の天皇杯をもたらすなど、監督とてリーグ歴代1位となる通算15度のリーグ戦制覇を成し遂げた。

 非常に短気で負けず嫌いな性格で、試合に敗れた日は先発だった星野仙一さん(享年70)とともにパンツ一枚で一晩中グラウンドに正座し続けた。また、早慶へのライバル心も人一倍で、「M」のマークが入った明大の旗を、下級生が間違えて上下逆さまにグラウンドに掲げ、島岡監督が最も嫌う「W」になった。その場にいた全員が青ざめたこの事件は「Wの悲劇」として、その後も部員たちによって語り継がれたという。

 時に鉄拳制裁も辞さない熱血指導も島岡監督の特徴の一つだが、それも選手を我が子以上に思うからこそ。秋のリーグ戦終了後には東大の4年生をグラウンドに招待して親睦試合と懇親会を開催した。「彼らはいずれ一流企業で出世する。お前たちもいつお世話になるか分からないから」という島岡監督の考えからスタートした。4年生の就職活動では毎年、自ら企業を回って頼み込んだ。そんな情に熱い島岡監督だからこそ、選手もついていったのだろう。

 清原正吾と島岡吉郎。2人を結びつけるのは少々強引だろうが、ほぼ野球経験がないまま東京六大学へと飛び込んでいった環境は同じ。きっと、島岡御大も天国から温かく見守っているに違いない。

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