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安部球場
東京都西東京市にある早大・安部球場

 心配なニュースが飛び込んできた。日米大学野球選手権第3戦が9日(日本時間10日)、米ノースカロライナ州で行われ、「5番・一塁」で先発出場していた上田希由翔内野手(明大)が負傷交代した。

 気になるのは負傷した箇所だ。2回1死から右前打で出塁。米国の先発投手が一塁へ投じた牽制球が首付近に直撃した。上田は苦しそうに倒れ、球場内は一時騒然。起き上がることすらできず、試合は約40分間中断した後、救急車で搬送された。

 精密検査の結果、骨、神経に異常はなく打撲と診断。意識はしっかりしているとの情報もあり、とりあえずは一安心だが、当たりどころによっては、選手生命はおろか、生命の危険すらある箇所なだけに、まずは静養に努めてもらいたい。

 日米大学野球でのプレー中の事故として思い出されるのが、1972年(昭和47年)に行われた第1回大会に出場していた東門明内野手(当時19歳、早大)だ。東門さんは神奈川の武相高校から1971年(昭和46年)、一般入試の末、早大に入学。打力を生かすために、投手から内野手に転向し、2年春に三塁のレギュラーを確保。打撃ランク6位となる打率.400(35打数14安打)をマークするなど活躍が認められ、日米大学野球選手権の日本代表に選出された。

 東門さんを悪夢が襲ったのは、72年7月9日、神宮で行われた同大会第2戦のこと。7回に代打で左前打を放ち出塁すると、1死後、藤波行雄(中大)の二ゴロの際に、遊撃手の併殺狙いの送球を頭部に受け、退場した。意識はあったが、その後嘔吐の症状が出たことから病院へ搬送。右側頭骨骨折による頭蓋内出血および脳挫傷と診断され、5日後の14日に帰らぬ人となった。

 その後、東門さんが背負っていた背番号13は日米大学野球選手権日本代表の永久欠番とされ、同様に、早大でも東門さんの背番号9も永久欠番とした。

 この頃は耳あてなしのヘルメットがまだ一般的で、走者になればヘルメットをかぶらない選手も多かった。しかし、東門さんの悲劇をきっかけに、走者にもヘルメットの着用が義務づけられた。

 そのヘルメットも近年ではフェースガードの使用が認められるなど、当時に比べ、防具ははるかに進歩したが、首や背中、胸などは、生命に関わる大事な箇所にもかかわらず、ほぼノーガードで投球や打球を受けてしまう。

 トレーニング方法の飛躍的進化により、投球や打球の速度は年々上がり続けている。あらためて野球の安全性について考える時期がきているのかもしれない。

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