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ベースボール5のチーム「Spirit Bonds」を率いる宮之原健さん

■ベースボール5のチーム「Spirit Bonds」宮之原健さんは2011年夏の甲子園優勝を経験

 高校3年間で積み重ねた貴重な経験が、今を生きる上での礎となっている。今年4月、野球を原型として考案された「Baseball5(ベースボール5)」のチーム「Spirit Bonds(スピリット ボンズ)」を立ち上げた宮之原健(たける)さんは、日大三(西東京)時代の2011年夏の甲子園で全国制覇の経験がある。中学時代は軟式野球で活躍し、2009年に日大三へ入学。同じ新入生と初めて練習した時の衝撃は、15年経った今でも脳裏に焼き付いている。

「凄いところに来てしまったなと思いました。初日から高山俊、横尾俊建、畔上翔らが球場で柵越えをしていたりして、『何だ、これは』と…。私が一番下手くそで、初めて硬球を打って手も痛いし、ボールも重くて投げるのも難しくて…。中学までは主力だったので、いけるという思いもあったのですが、これはやばいと感じました」

 とにかく、1年生の間は、基礎体力をつけることを最優先に、小倉全由監督(当時)らスタッフの言うことをしっかりと受け入れながら、一生懸命練習した。

「生き残るために自分の武器は何かと考えた時に、ホームランバッターは揃っていたので、そこではなく、スピードでした。三木有造部長(現監督)にも本当に優しくも厳しく、色々と言っていただき、自分の生き残るべき道を少しずつ磨いていきました」

 何でも真摯に取り組む実直な性格も評価され、2年生からBチームの主将を務めると、新チームからAチームの副将兼寮長を務めた。主将の畔上、同じく副将の横尾、鈴木貴弘入れた4人で幾度もミーティングを重ね「小倉監督を絶対に男にしよう」と一致団結した。

「私たちの代は、事あるごとにしっかり言い合える選手が揃っていました。変に馴れ合わず、いい関係でやっていたのかなと思います」

守備練習を行う宮之原健さん

■2011年センバツは記録員…「夏は絶対ベンチに入る」春の都大会でチャンス生かした

 秋の東京都大会は肘を手術した影響もあってメンバー外になったが、東京を制して出場した明治神宮大会で公式戦初のベンチ入りを果たした。しかし、翌春のセンバツは記録員として、チームの準優勝を見届けた。

「あの時の同級生の実力を知っているので、ケガは関係なく、実力はまだまだだったなと、客観的に見ても思っています。ただ、センバツは本当に悔しくて、夏は絶対にベンチに入ってやろうと思って、改めてギアが上がりました」

 その後、春の東京都大会で再び背番号を奪い返し、決勝の佼成学園戦、代打として公式戦初出場を果たす。夏のベンチ入りへ向けての試金石となるのは、一目瞭然だった

「多分ここで打たないと、(夏のベンチ入りは)もうないなと自分の中で分かっていました。結果的に初めての打席でヒットを打つことができて、延長10回裏に回ってきた打席は敬遠されて、鈴木のサヨナラ満塁本塁打で優勝することができました。そこでやっと、チームの一員になれたかなというのはありますね」

 そして夏の東京都大会にベンチ入り。チームは春夏連続で甲子園出場を果たし、日本一まで駆け上がった。宮之原さんは準決勝の関西(岡山)戦で守備固めとして、聖地のグラウンドの感触を味わった。そして、最後の公式戦となった国体で初スタメンを勝ち取り、チームの初優勝に貢献した。強豪校で戦い抜いた3年間。学んだことは「しんどいことをコツコツやりきれば、道は開けてくる」ということだ。

「最後の最後でちょっとずつ光が見えてきて、試合にも出してもらって、結果を出すことができました。苦労は多かったですが、ちょっと輝きが見えたっていう感じですね」

■今でも父のように慕う存在…恩師・小倉全由さんのような「大きな存在になりたい」

 「たけっちゃん」と愛称で親しまれ、辛抱強く見守ってくれた恩師の小倉さんは、今でも父のように慕う存在だ。

「グラウンドでは厳しく接していただきながらも、その後、お風呂に一緒に入ったり、食事の時には温かい言葉をかけてくれました。小倉監督と一緒に甲子園という舞台に行きたいという一心でやっていました。今でも連絡させていただいていますが、いつの日か、そんな大きな存在になりたいと思わせてくれるような方です」

 いい師、いいライバルに恵まれたからこそ、諦めずにやり通すことができた。かけがえのない3年間が、その後の東京学芸大、独立リーグ、そしてベースボール5での活躍の土台となったことは、言うまでもない。宮之原さんはこれまでも、そしてこれからも変わることなく、純粋にボールを追い続ける。

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